あきらめない人々


皆さんいかがお過ごしでしょうか。
引っ越し前の最後の更新になるかと思いますので、ちょっと昔の話を。
これから書くことは全て直接私が見たり聞いたりしたことです。コピペはありません。

阪神大震災から数日が経過した頃。

クラスメイトA君は完全装備して現地へボランティアに行きました。教室に帰って来たのは一ヵ月くらい後かな。
リーダー格となって指揮もしていたと聞きます。
私のいたサークルは神戸大と交流があったので、京都の大学と連携して自分達の下宿に神戸大の友人達を受け入れました。一ヵ月か二ヵ月か、それくらいだったと思います。
それとは別に、クラスメイトB君の下宿には神戸市に住んでいたクラスメイトC君が一緒に住むことになりました。

一ヵ月くらいが経過した頃。

私は研究室の先輩に呼ばれて、建物倒壊調査のボランティアに参加しました。
関西中の建築系学生が総動員でガレキの片付きつつあった街を徒歩で回りました。
一軒の家を半壊扱いにするか無事とするか判断に悩みながらウロウロしていたら、住人のおじさんが近付いて来ました。
こちらはその方の壊れた家を不躾にも一眼レフで撮影して何やら書き込んでいる不審な学生です。
腕章を見せ、していることを説明すると「これからの街に必要なことやし頑張ってな」と道端のドラム缶で焼いていた焼き芋をわけてくれました。

古い住宅地図しかなかった地域の地図を全部スキャナで読み込み、まだ研究室や大手ゼネコンにしか普及していなかったCADデータを作りました。
少しでも効率よく作業を進められないか、ソフトを改良する者・人の動かし方を考える者、議論は続きました。

建物調査も数回行われました。
仮設住宅の設置された公園を通ると、おじさん達が昨夜のイチローのヒットの話で嬉しそうに盛り上がっていました。
私の勝手な妄想なんですけど、イチローがヒットにこだわったのはホームランより一回でも多く、観客を喜ばせることが出来るからなんじゃないかな。あの頃は一週間に一度のホームランより毎日一本でもヒットを打つことがとても大事で、その積み重ねで神戸がちょっとずつ元気になっていった気がします。

一年が経過した頃。

復興に向けての様々なプロジェクトが動き出していました。
都市計画の住民を交えた話し合いは何年も何年も続き、激しい口論もありました。その会議の渦中にいて、住民と共に街を作る提案をし続けた先輩Dさんはそのノウハウと経験を持ったまま、現在国交省で官僚となっています。
何年にも渡って何本もの論文がまとめられ、蓄積されています。必要な時にいつでも閲覧が出来ます。

原発を安全に止めるためには専門技術者が必要だ、と原子力工学科に来た人がいました。
震災復興のプロセスを見て、関わって来た友人達が今、ゼネコンやハウスメーカー、プラント、メーカー、それぞれの第一線で活躍しています。
自分の適性を技術系から芸術系や司法方面に切り替えた友人達もいます。
技術力を持ったまま、子育て中のママもいっぱいいます。
私達は神戸が立ち上がってきた経緯を知っています。人が少しずつでも必死に前に進み続けていることを知っています。今日現場で対策を練り続けている中に友人がいることを知っています。

私はいつだって絶対にあきらめない。それは技術屋のやることではないからね。
震災からの復興は十年単位で続きます。
今出来ることが無いと焦っている人、どうか力を蓄えておいてください。必ず出番が来ます。
どんなことでもいい、専門性を身につけて下さい。R20の裁縫師が10人いても作れないモノをR50の人は一人で作ることが出来ます。やっぱりプロとして力を発揮するのが一番いいのです。
折り紙のプロ作家さんはたった一枚の紙で避難所の子供達を何時間も喜ばせることが出来るでしょう。その間、疲れた保護者達が少し休んだり、他の用事を足すことが出来るでしょう。
ボランティアにだって交代要員が必要です。
じっくり考えて、何が出来るか、何をしたいか、決めて下さい。

関西の人間は次にどうなるか、何が必要かを知っています。
それぞれの立場でいろいろな準備をしています。
関東の方で動かなくなった工場のバックアップをするべく、増産体制に切り替えているところもあります。
人は絶対に前に進み続けます。

それではエオルゼアで、ギランでまたお会いしましょう♪

コメント

  1. りょー より:

    Unknown
    当時西宮で小一だった男の子は毎朝5時に開かなくなった玄関ではなく ベランダから外に出て給水をしに行っていました

    下校の際は瓦礫をどかしてました

    自転車で遠くまで食糧の買い出しにもよくいきました

    その男の子は今こうして西宮で医学生になった訳ですが、まだまだ専門知識が足りない故医療活動が出来ないのが現状…

    技術力を高めておかないといけないというのは痛感します

    アルヒャさんの記事を読み、僕は感じていたよりも、より多くの人に当時は支えられていたんだと気付かされました

    ありがたいの一言につきます

    当時を振り返ると、被災してる辛さよりも、大人の役に立つ嬉しさの方が勝ってたのかもしれません

    被災したからこそ、多くの人の強さ、暖かさ、醜さを体験しました

    ベランダから見下ろす街は、炎と煙で常に鈍く光っていました

    手助けが出来ない人でも、今の生を噛み締めるだけでも意味があると思います

    これから被災者のみならず、日本中の人が試されるでしょう

    すでに出回っている誤情報やチェーンメール

    やらない善よりやる偽善

    様々な憶測や議論が出ると思いますが、一人一人が落ち着いて熟考すべきだと思います

    十数年たって、やっと周りの更地も姿を消していきました

    これから十年単位で辛抱強く前進しなければですね

    なぁんてたまには溶けそうな脳みそ使ってみました(笑)

    長文申し訳ながんす(*´д`*)

    ではまたエオルゼアで(≧ω≦)b

  2. いまのわたしにできること。

    阪神・淡路大震災の時、わたしは埼玉にいた。地元の本屋さんでアルバイトをしていた時代だと思う。
    朝食をとりながらのTVで衝撃の事実を知った。高速道路だったかと思うけれど、丸々横倒しになっている映像を見て、最初は信じられなかった。
    新潟中越地震の時、わたし…

  3. アルヒャ より:

    (ー`)ホロリ
    よくぞそこまで立派に育ってくれた!と思います
    見本として展示しておこうかっていうレベルw

    今の私ならわかる
    当時その男の子が精一杯頑張っている姿に、励まされて救われて希望を見いだしたオトナがきっとたくさんいる
    やっぱりコドモは生きていてくれるだけで光なんですよ

    話はちょっと違うけどパニック時こそ娯楽って大事ね
    毎日不安で落ち着かなくてドキドキな人は、意識的に好きな音楽を聴いたりちょっと運動したりして気分転換をしましょう
    そうやって心を安定させる練習をするのもとても大事
    笑顔になるのは不謹慎なことではなくて水やゴハンと同じくらい必要なことなのです

  4. アルヒャ より:

    名古屋到着
    名古屋生活が無事に始まりました!
    金魚のプーちゃんも元気に移動できましたよ
    かなりドキドキでしたが??

    しかぁし時期的に混雑しているのもあって、4月頭までネット繋がりません(△`)
    ケータイのみの情弱生活や??

    とりあえず一日で家の中は半分片付いたので今日は転入届とか買い物とかアレコレだな
    そんなわけで家族一同元気であります

  5. くりす より:

    Unknown
    はやく携帯からFF14をプレイする作業に戻るんだ!

  6. アルヒャ より:

    やっとネット開通♪
    ようやくネット繋がったぜ!!
    ケータイでFF14とかそれどんなハイスペック!

    は~長いこと不便だったわ~
    早速FFログイン出来るかどうか調べてみようと思ったがもう晩ゴハンの時間なのであった(△`)